ブログトップ
<   2009年 02月 ( 4 )   > この月の画像一覧



 そも、日本人ほど狐を重んじ、自らの文化へ取り込んだ民族はいないといわれる。
 人を化かすアヤカシとしての側面と共に、神の使いとして崇められている顔も持つ。
 稲荷神社がその良い例である。
 稲荷様も何故ここまで日本にその数を増やしたのかが謎な神様であるが、その眷属が狐というのもあまりにハマりすぎていて、面白い事実であるといえる。

 wikiを覗けば、古代、稲作が始まった頃、ねずみの害に悩まされた人々にとって、それを駆除してくれる狐や犬などは益獣として有難がれたと言われる。
 そうして役に立つ面と、伝染病を人里へ持ち込む、有難くない――言うなれば祟り神めいた一面を持っていたことから、評価が定まらない=二面性を持つということになったのだろうかとも思われる。

 とはいえ、犬も、稲作文化を持つ弥生人の前に日本でその威を誇っていた、狩猟民族である縄文人にとってはよき狩りのパートナーであったが、弥生人にとっては死骸や残飯をむさぼり、群れをなして人に害を及ぼす忌むべき生き物であった、とする説もあったりする。

 つまり、何が言いたいのかといえば。

 ――先の記事で、真実は時と共に移ろうものであると書いた。
 万物は流転し、何一つ変わらぬものなどこの世にありはしない。
 人の好き嫌いも、それに同じである。
 彼らは彼らのあるがまま、時に人に益を齎し時に害を齎してきた。
 崇めること、祟ることは、一目瞭然、同じこと。
 特に日本のような多神教文化の神というのは大変人間くさく、自分の都合で能動的に動きを見せるのが特徴である。

 祟られてはかなわぬから、崇めるのである。

 さて、それでは古来よりこの世界で蠢き、今再び現代に蘇り。
 先の戦いでよりその姿を明確にしてきた『彼ら』は。

 果たしてこたびの時代、神の使いとなるか?
 それとも、化かし、祟るアヤカシであるのだろうか――。
[PR]
by ryu-itirou | 2009-02-21 13:39 | 雑記
St. Valentine's Day



 OK、簡潔に。


































 今年の獲得数17個



















 ご馳走様でした。(合掌)
[PR]
by ryu-itirou | 2009-02-18 00:41 | 雑記
戦後



 気合の入った男達だった。

 彼らは学園の生徒ではない。

 だから、生命賛歌の力を得られはしなかった。

 能力者はそれでも、魂が肉体を凌駕することはある。

 だがいつまでも死なない、などと言うことはけしてない。

 倒され続ければ、いつかは必ず死ぬ。

 それでも麒麟を倒そうと、文字通り命がけで奴らは向かっていった。

 果たしてそんな戦いに、今学園に居る能力者達の何割が挑めるだろう。

 戦場では、冷静さを失った者から死んでいく。

 彼我の戦力を冷静に見極め。

 勝てぬと判ればすかさず引き。

 そして、今は引いても必ず借りを返すぞ、と。

 臍を噛んで命を惜しみ、雌伏の時を生きる戦いの仕方もある。

 俺が目指すべき戦いとはこういうものだ。

 屈辱に耐え、命を惜しむ、生きるための戦い。

 死んでしまっては何にもならない。

 生き物が行う戦いとは、これ全て。

 生きるための手段なのだから、そうであって然るべきなのだ。

 だが――それでも。

「馬鹿共が…」

 それでも…この胸にどこか懐かしい熱さが。

 この唇に笑みが浮かぶのを――禁じえなかった。

 Good bye...PURPLE HIGHWAY OF ANGELS.


 帰り道。
 夜明けの、紫に染まった国道136号線を走りながら――静岡にて。
[PR]
by ryu-itirou | 2009-02-11 14:13 | 雑記
麒麟



 ……黒麒麟?角端?
 ――…常世の国の皇子の乗馬?

 ……いやおいといて。

 てっきり隠神刑部とか出てくるものだとばかり思っていたが――何気に路線を乙女ゲー方向に変えてきたのだなと思った。うむ、平家的な意味で。
 そういうわけで目下の問題である麒麟という瑞獣について、本気出して考えてみたわけである。

 さてまずは一般的な…つまり世界結界の影響下における麒麟の姿について記しておこう。
 その姿は鹿に似て大きく背丈は5mほどもあり、顔は狼に似て、牛の尾と馬の蹄をもち、雄は頭に角をもつとも言われている。
 背毛は五色に彩られ、毛は黄色い、頭には角があり、本来は1本角であるとされる。
 ただし、2本角で描かれる例もある。

 その性質は非常に穏やかで優しく、足元の虫や植物を踏むことさえ恐れるほど殺生を嫌う動物とされ仁獣とも呼ばれて神聖視される。
 千年を生き、その鳴声は音階に一致し、歩いた跡は正確な円になり、曲がる時は直角に曲がるという。
 また、動物を捕らえるための罠にかけることはできず、麒麟を傷つけたりその死骸に出くわしたりするのは不吉なこととされる。

 また、『礼記』によれば、王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物(=瑞獣)であるとされ、鳳凰、亀、龍と共に「四霊」と総称されている。
 鳳凰と同じく名称に雌雄の区別がありオスの麒麟を「麒(き)」、メスを「麟(りん)」とするが、この雌雄を逆にしている資料もある。また『麟』の一字で雌雄の別なく麒麟を表すことも多い。

 なお、麒麟は鬣や鱗の色の違いによって呼称が変わることがある。
 紅いものを炎駒。(えんく)
 青いものを聳孤。(しょうこ)
 白又は白金のものを索冥。(さくめい)
 黒いものを角端(かくたん)と呼ぶ、上記したのはこれである。
 かの依頼から戻った学園生徒の情報によればその姿は黒く、鬣が金色であったということであったから、誰にともかくそう問うてみた。
 ちなみに角端は非常に珍しく、他を上回る神通力を持っているとされている。

 また所謂四神の中心的存在として黄龍と同一視されることも多く、四神の長とも考えられ、東西南北の四神=守護獣に対し中央を守るとされる。
 これは一般的なイメージの毛並みの色が黄色で、五行における土行の象徴色の黄色=方角は中央ということにも通じるが故の話であろう。

 さて、ここまで読んでみて、何か違和感を感じないだろうか?

 ――そう、詠唱銀を撒き散らし、ゴーストを次々と生み出すあの姿――大いなる災いと呼ぶに相応しい所業は、草木を踏むことさえ忌むとする、伝説に謳われた仁獣の姿とは、あまりにかけ離れている。
 これは一体どういうことか。
 確かに伝説は所詮伝説である。
 今現在目の辺りにしているものこそが真実であると断じてしまうのはたやすいが――世界結界に覆われ、今だ世界の真実の片鱗しか知らぬ我らの考えで、そう決め付けてしまって、果たして本当に良い物だろうか――と、そう思うのである。
 では、あれがもし麒麟の真実の姿ではないとしてみると――…一つ、引っかかることがあった。

 それは、かの麒麟が源平合戦の折に、平家側の兵器として使われた(使われようとしていた?)ということである。
 例えば麒麟を使役することが出来るメガリスなりを平家が手に入れ、それを振るおうとしたとしよう。
 伝説に謳われた霊獣、麒麟を使役し、力として用いることが出来ればそれはいかに当時の、能力者の軍勢と雖も千や二千、物の数ではないのかもしれない。

 しかし、麒麟はその力こそ強大なれども、その性質は争いを好まぬ生き物だ。
 とてもとても、敵を蹴散らすような使いようは出来まいと思うのだ。
 だが現に今、麒麟は波から、また空気から己が軍勢を次々と作り出し鎌倉へとやって来ようとしている。

 これはどういうことか?と思うわけである。

 ――ここからは全て、俺のごく個人的な考えに過ぎない。
 それを踏まえた上で読み進んで欲しいが――もしここまでの過程が真実だとしたら、麒麟を兵器として使うのは、簡単なことなのだ。

 仁を尊ぶ麒麟の、その性を『歪めて』しまえば、良いのである。

 それを行ったのは何者か?
 恐らくは、平家の、時の有力者から依頼されたか――または、無理やりやらされたかした能力者の手によってであろう。
 …そう、その力は、今は俺たちが良く知るところである。

 日本古来より存在していた、森羅万象を汚染する呪われた「言葉」の使い手。

 そう。
 森羅万象、この世の全てを汚染し、捻じ曲げる呪いの言葉の使い手である呪言士ほど――…この任務に向いた存在もあるまい。
 そして、呪言士の集団である天輪宗。
 麒麟を封印していたのがその彼らであったことが、果たして何より雄弁に、真実を語っているとは考えられないだろうか。
 何らかの事情により、天輪宗の開祖、日然は平家に力を貸し、仁をその性とする麒麟の本性を捻じ曲げ、邪なる災いとした。
 だが結局、戦の道具として麒麟は使われることなく――または上手くいかず、平家は滅びる。
 そして、忌まわしい歪みの権化と成り果てた麒麟に責任を感じ、日然は麒麟を封じ、弟子達に子々孫々に渡って封じよ、と言葉を残して没した――。
 そんな情景が、まざまざとこの目に浮かんで来るのである。

 かつて天輪宗の古老はこう語った。

「この寺を建立した日然という方はの、源平合戦の頃四国を行脚しとったんじゃ。戦が終わりますように、っちゅうて念仏唱えて歩いとったんじゃの。……その頃四国では化け物が人に悪さをする事件が起こっておった。それが平家の仕業じゃと言われとって、日然様はそれに心を痛められた。お弟子様とともに日然様は、その法力で化け物を封じ込めたと言われておる。……まぁ、それが封印の石じゃ」

 彼ら、天輪宗の総本山の寺は、千二百年前に建立されたと言われる。
 果たして一介の修行僧にそんな建物を作り上げることが可能か?
 答えは否である。
 宗教というものも、ある側面を切り出してみれば力である。
 その力は、古くなればなるほど、時の権力者の庇護無くして存在出来ぬものであったのだ。
 ならば、平家と何らかの取引をした日然がその対価として、この総本山となる寺を得たとしても――なんら、おかしいことはあるまい。

 そうして見れば、かの麒麟が体にまとっているように見えるあの鎧のようなものが、その歪み、呪いの顕現した姿そのものにも見えて来るから不思議なものだ。

 ちなみに此処まで書いておいてなんだが、これはあくまで俺のごく個人的な見解である。
 歴史は生き残ったものが作るもの――そういう言葉があるが、まさしくその通り。
 真実は、変わっていく。
 今真実だと思えるものも、時代が変われば否とされるのが人の世というものである。

 よってこの記事に書き連ねたものはあくまで妄想、妄言の類である。
 今や同盟組織となった天輪宗、また学園の能力者となってくれた呪言士の面々に、何の文句をつけるものではないことを、重ね重ね記した上で。

 此処に、俺の一大妄想日記を閉じようと思う。(笑)


 …ああ、最後に一言。



















 それにつけてもポジション、どこに行くべきか――…。(ぶつぶつ言いながらフェードアウト)
[PR]
by ryu-itirou | 2009-02-02 22:03 | 雑記